徒然草 第188段
ある人が自分の子供を坊さんにして、「学問をして因果の理法をも知り、説経などして、
世を渡るための手段にもしろ」といったので、子供は親のいいつけどおりに説経師にな
ろうとするために、まず馬に乗る稽古をしたそうな。
どうせ輿や車を持たない自分などが、導師として招待せられる場合、馬など迎えによこ
したりした場合、尻が落ち着かなくて落ちでもしたら残念なことだろうと思ったからだ。
次に仏事の後で、酒などをすすめられるような事がある場合に、坊さんとしてまるで芸
のないのは、施主も興ざめに感じるに相違ないというので、早歌ということを習ったそう
な。
この乗馬と早歌の二つが次第に上達の境地に達したので、もっともっと上手にしたく感
じて、力を注いでいるうちに、とうとう大切な説経など習う暇もなく、年をとってしまったそ
うな。
この坊さんだけでなく、世間の人々にも、一般にこれと同じことがある。若いころは、何
ごとにつけても立身出世し、立派な道をも成し遂げ、芸能も身につけ、学問もしようと、
将来遠く先の先まで計画しているいろいろなことは、心には掛けながらも、一生は長い
ものだと怠りなまけて、まず直面している目の前のことばかりまぎれて月日を送るので、
どれもこれも成就することもないうちに年をとってしまう。結局は何の名人にもならず、
予期したように立身出世もせず、後悔しても齢は取り返しのつくものではないから、たと
えば坂を走って下る車のように、さっさと老衰していく。
だから一生のうちに、主としてこんなふうにしたいと思う多くの事がらの中で、どれがま
さっているかをよくよく考え比較して、自分にはこれが第一と考え定めて、そのほかは
思い切ってしまって一つの事に精進しなければならない。
一日のうち、一時のうちでも、後から後から起こってくるたくさんの仕事の中で、少しで
もためになりそうなことに従事して、その他はすっかり捨ててしまって、大切なことを急
いでしなければならない。どれもこれも捨てないようにと、執着していたのでは、一事も
成就するはずはない。
たとえば碁を打つ人が、一手も無駄にしないようにと、相手に先立って利の小さい石を
捨てて、利の大きい石に力を注ぐのと同じ事だ。その碁の石についていうなら、三つの
石を捨てて十の石につくことは何でもない。 が、 十を捨てて十一につくことはむずか
しい。たとい一つでも、まさったほうにつかなくてはならないのに、十までになってしまう
と、惜しく思われて、大してまさってもいない石には代えにくい。この石をも捨てず、あの
石も取ろうと思う野心に惹かれて、結局はあの石も得ず、この石も失わなければならな
い破目に陥るのだ。
京に住む人が、東山に大急ぎの用事があって、すでにその目的の家に行きついたとし
ても、もし西山に行ったほうがよかったなということがわかったら、その門から早速引き
返して西山へ行くがいいのだ。
折角ここまで来てしまったからには、このことをまずいっておこう。日をきめたことでもな
いから、西山の用事は、帰ってから後またあらためて思い立とうと考えたりするから、
一時の怠りがそのまま一生の怠りとなる。これは大いに戒めなければならないことだ。
もし一事を成し遂げようと思ったら、他の事がうまくゆかなくても苦痛に思ってはならな
い。人が嘲笑っても、恥ずかしく思う必要はない。何事も犠牲にしなくては、一つの大事
は成し遂げられるものではない。
大勢の人が集まっている中で、ある人が、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄などとい
うものがある。あの渡辺にいる上人がこれを聞き伝えて知っている」 と話したのを、そ
の座におられました登蓮法師が聞きつけて、雨も降っていたのに、「蓑と笠があるか、
お貸し下され。その薄のことを習いに、渡辺の上人のところへ聞きに出かけましょう」
と言ったので、「とんでもない、せっかちだ。雨がやんでからでも」と誰かがいうと、「お前
こそ、とんでもないことをおっしゃるなあ。人の命は雨の晴れ間なんか待っているものか。
自分も死に、その方も亡くなってしまったら誰に尋ね聞くことができようと思うのか」と言
って、走って出かけていって、とうとう覚えたそうだといい伝えているが、これは本当に大
した、また珍しいことだと思われる。「すばやくやれば、すなわち効果がある」と、論語と
いう書物にもありますそうな。この薄を不審がって聞き明らめたというように、悟りを開く
原因や気運を知ろうと、心掛けなければならないのだ。
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