つれづれわぶる人は

     決心に手遅れなし 今日がスタート(2010年8月 I T 撮影)

 

徒然草 第75段

 

じっとしていて、いるにもいられない気持ち、所在なさ、いわゆる 「つれづれ」 を歎く人は、

どんな心持なのだろうか。気が散るようなこともなく、ただ一人でいるのはいいものなのだが。

 

世間の風習に調子を合わせていくと、心は外界の穢(けが)れに捉(とら)われて惑(まど)い

やすく、人と交際すると、交わす言葉は、相手の聞き方に気を配って用いるから、そっくりそ

のまま自分の心ではない。

 

人に戯れ、物事につけて人と争い、あるときは恨み、あるときは喜ぶというふうで、その心

の情態の安定していることなど、ありはしない。いろいろな判断がむやみに起こってきて、

いつも損得に心を使って、果てしがない。心が迷っているその上に、その迷いに引きずら

れて、まるで酔っ払っているようなものだ。さらにまた、酔っ払った上に、夢を見ているとい

った情態だ。せわしく走り歩いて、大切な道のことを忘れているのは、みんな誰でも同じこ

とだ。

 

また真の仏道の悟りを知らないにしても、心を乱すかかりあいから離れて、身を静かにし、

世間の事に関係しないで、心を安らかに保っていたら、それがすなわち、暫くでも、この世

を楽しむこととなるともいうことができよう。

 

「生活・人事・技能・学問など、こうした修行の邪魔になりそうなかかりあいから手を

切れ」と、摩訶止観にもありますことじゃ。

 

 

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